度会町栗原
宮川支流一之瀬川の右岸の山間の村です
在所のほぼ中央の十字路を少し北に入ったところに
「道楽神」と呼ばれる石塔が立っています
三重県の文化財データベースから引用します
道楽神石塔
『総高63.5cm、幅27cmの角柱形の石塔である。南面して2体の神像が半肉彫りされている。道楽神の男女の区別は不明だが、衣冠束帯(いかんそくたい)風で、地元では「道楽神」と呼んでおり、一般に道祖神と同じと考えられている。西面には三面六臂(さんめんろっぴ)の青面金剛像(しょうめんこんごう)が半肉彫りされ、北面には3行で「三山大明神 南無阿弥陀仏 金比羅大権現」と、東面には同じく「秋葉大権現 富士山大権現 湯殿山大権現」と陰刻されている。』
三重県の文化財データベースより引用
境をまもる塞の神は「道陸神どうろくじん」とも呼ばれますから そこから訛化して「道楽神」となったのではないかとおもいますから 後年そう呼び習わされるようになったということでしょう
もうひとつ
太田古朴氏が書かれてS48に刊行された「三重県石造美術」から引用します
『〜正面に高さ25糎の小青面金剛像を、右側面に高26糎の太子童形の庚申二脇侍像を浮彫り、〜』
「三重県石造美術」太田古朴 より引用
『〜西面の二体道祖神では無い。』
そして 双体の像が西面 青面金剛像を北面していると書かれています
ここで湧き上がってきた疑問を整理すると
①この石塔は青面金剛像を正面としていて 側面の双体像はその脇侍である童子なのか それとも 双体像を正面として見るべきで 道楽神と呼ばれる道祖神であるのか?
②現状では青面金剛像は西面していますが大田氏の文章では北面しているとあるのはなぜか?
①の疑問については ある時期には庚申塔として青面金剛像を正面として祀り またある時期には道楽神として双体像を正面として祀り ふたつの神格をその時代の求めに応じて使い分けてきた石塔ではないかとおもいます
②について考えてみると
どうやら棹石が45度左回転して置き直されたらしいことがわかってきます
石塔の中台には三界万霊の文字が刻まれています
普通はその文字の彫られている面が正面になりますが 現在の状態を見ると 三界万霊の文字は西に向いていて 青面金剛像を正面として祀られていることになりそうです
ところが先の「三重県石造美術」にある写真を見ると 中台の三界万霊の文字は双体像と同じ方角を向いています
棹石が置き直される前には双体像は西面していましたから 中台は動かず棹石だけが45度左回転したことになります
儀軌で定めた青面金剛に付随するものといえば 鬼と四夜叉と青衣の童子ですが
三尊形式とするには二童子を加えることになります
不動明王も矜羯羅と制多迦の二童子を加えて三尊とします
彫像では省略されることの多い二童子ですが これを加えて三尊としたのではないかという気がします 石塔の造立が企画された時点では青面金剛像を正面とした庚申塔だったのではないでしょうか?
とりとめなく あれこれと推量するのも 石仏の冒険の楽しみのひとつかと
コメント