
正覚寺の門前にある道饗社
「道饗社」とは珍しい名前の神社です 鳥居をくぐって境内に入ると 庚申さんのお堂が建っているだけで 神社の本殿らしき建物はありません 不思議におもって調べてみました
神祇令に定められた祭りの中に「道饗祭(みちあえのまつり、ちあえのまつり)」というものがあったようです 毎年6月と12月の2回 京の都の四隅に八衢比古神(やちまたひこのかみ) 八衢比売神(やちまたひめのかみ) 久那斗神(くなどのかみ)の三柱を祀り 幣帛をたてまつって 都の外からやって来る鬼魅や妖物を路上で饗応し 都への侵入を防いだのだといいます 疾疫が起こった時は地方でも斎行されたようです
柳田國男も『地名の研究』の中で触れているというので そちらも調べてみると
『武蔵の村々に饗庭あえばという地名かまたは家名が多いが、相場もこれと同じく、ともに道饗祭みちあえまつりすなわち邪神祭却の祭場のことであろう。また北武蔵などに多いアイノ田「間の田」という字も単に里と里との境の意味でなく、饗場の田ではあるまいか。二万分一図で見ると、古川跡の田に開かれた所に「間の田」が多い。すなわちあまり古い地名でないことがわかる。』
『地名の研究』柳田國男より引用
饗庭(あえば)という地名は聞いたことがあります 藤原町に饗庭神社がありますが ここは道饗祭(みちあえまつり)の祭場だったということがわかります その饗庭神社をネットで検索すると
『当神社は往古村をもって社号とするその名饗庭村といい当時は神宮の御厨地であった。享保年間、この地域に災害多く凶作飢饉が度々あり悪疫が流行した為これらを退散させたいと願い京都祇園感神院祇園社(八坂神社)より牛頭天皇勧請しこの神社を牛頭天王社と称された。 慶応4年(1868年)神仏判然令が出され素佐鳴命を御祭神としてさらに天照皇大神と共に神社名を饗庭神社とし、現在に至る。』
他にこの辺りに「饗庭」はないか これも検索してみると 明和町大字佐田大庭神社がヒットしました
『「神社明細帳」に当社は従来大庭八王子と唱えしを明治5年に八王子の号を廃して大庭神社と改称す、大庭は饗庭の…訛言せしなり。本郡内井内村の西に饗庭あり。…続日本紀に天平7年8月勅して曰く頃日疫死する者多し。諸国の守若くわ介に専を齊戒道饗の祭祀せよとあるを始めとして…道饗の祭場を饗庭と号す。…道饗神の疫神と称するに依り陰陽家の祭る疫神に混じ八王子と訛伝し来たれり。…道饗の旧祭場たるを証すべし』
なるほど 庚申さんは道の神様として集落の中に疫病やら悪いものが入ってこないように結界を守ることを任務とされていますが この「道饗社」は上古以来のこの「道饗祭」と結合した場所のようです 不勉強でしたが こうして疑問が氷解していくと少し気分があがります


お堂の中には庚申塔と青面金剛さんが並んでいます
右側の庚申塔は伊勢市内で最古の庚申塔だといいます
美しい青石の最上部に阿弥陀の種子 キリーク ह्रीः を陰刻し
『天正八年庚辰八月十三日』の紀年銘があります
『奉供養庚申待 現世安穏後生善所』と願意が刻まれているのも伊勢市内で二例だけと珍しいようです
残念ながらキリークを囲む円輪以外は明瞭には見てとれません


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