願證寺の青面金剛 松阪市豊原町 伊勢街道垣鼻〜櫛田 ④

伊勢街道を櫛田川を目指して歩いてきましたが ようやく終点の豊原の在所でです
おもん茶屋跡の建物の右手の小道を入っていくと願證寺です
境内から墓地に続くあたりに小さなお堂が二棟立っています
手前が地蔵さん 奥が青面金剛さんがお祀りされています

三面六臂の青面金剛さんです
右手に三股叉 矢 金剛杵? 左手に宝輪 弓 人
光背上部にうっすらと月輪と日輪 邪鬼を踏みしめています 猿や鶏も彫られていそうですがよくはわかりません

地蔵堂の地蔵さんは丸彫りにされた童形の美しい地蔵さんでした

伊勢街道を垣鼻から櫛田川まで歩いてきましたが 街道の路傍に地蔵さんを見かけることは本当に少なかったです 伊勢の廃仏毀釈は苛烈であったといいます 同じ伊勢街道でも斎宮の辺りを歩いていると
明治の頃に廃寺になった街道沿いの空き地に 今では在所の会所が立っているのをよく見かけます この辺りの地蔵さんも 池や田んぼに沈めてしまったでしょうか
少し調べてみました

「伊勢は天皇家の先祖を祀る伊勢神宮の門前町だから徹底した廃仏毀釈が行われた 明治初年に山田奉行所に度会府が置かれ 攘夷派の公卿である橋本實梁が 府知事に任ぜられると 着任早々伊勢の仏葬を禁止し神葬祭を命じている そして寺僧に対しては 廃寺に応じて還俗したら寺の建物などの個人所有を認めるが 廃寺しない場合はすべてを没収すると言って廃寺を迫った その結果 「寛文10年(1670)に発生した山田大火以前の寛文六年には寺院が371寺、江戸末期の安政二年(1855)でも120もの寺院があった。〜中略〜 宇治と山田合わせて109の寺が廃寺に追い込まれたという」 ※「廃仏毀釈」 畑中章宏著

では伊勢の周辺地域ではどうだったかというと 

「廃仏毀釈への取り組みは伊勢周辺でも地域により、また知事の考えかたによって差があったようで、隣接する田丸藩の管内では一つの寺院も廃寺にならなかったという。」 ※「廃仏毀釈」 畑中章宏著

そして松阪はというと

「松阪では当初、大々的な廃仏毀釈は免れていたが、元紀州藩士舟橋広賢が神職になり、この地に移住してきたことで状況が悪化した。舟橋は仏式の葬式から神葬祭への転換を大々的に押し進めた。」 ※「仏教抹殺」 鵜飼秀徳著

とはいえ 現在の市内で神葬祭を見かけることはほとんどありませんし 寺院が密集する中町などの寺町的様相からも 松阪での廃仏の動きは比較的穏健なものだったようにおもえます
そして道々出会った青面金剛さん もしも淫祠邪教の類であるからけしからん という風潮の中で石仏が破却されたならば 修験にも近い青面金剛さんは最も危なかったのではないでしょうか

願證寺境内の大狸

石仏の写真を撮るときに 像を動かして紀年銘を確認するといったことを わたしはしませんし 目利きもできないので これまで写真で紹介した青面金剛さんらも造立の年代はわかりません
しかし伊勢市内の青面金剛像については調査されて出版されています ※「伊勢市の石像遺物」伊勢市教育委員会
そこから造立された時代をみてみると
江戸前期 1 江戸中期 11 江戸後期 9 近代 3 無名 26 となっています
わたしは3割程度は近代まで下るかと想像していたのですが ほとんどが江戸中後期のものだと考えてよさそうです 松阪の辺りも傾向としてはほとんどかわらないでしょう
すると 青面金剛さんが江戸時代を通じて残されてきているということは 地蔵さんだけが受難して破却されたということはないでしょうから 初めからこの地域には少なかったのかとおもいます

おもん茶屋はへんば餅を名物にしていました 川の渡しの手前で馬を返して茶店で一服することから へんば餅 と言うらしいですが ほうぼうの茶店で商われたのですかね

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